完璧なフィクションって。

新年会で何年かぶりに行った「まんだらけ」で森雅之の単行本を衝動買いしたpapaです。まいどー。森さんの本は良いわー。この感動を伝えたいけど、先に書く事書いとかんとな。うむむ。

性表現と差別

前回は硬めの文章で書きましたけど、今回のはお絵かき仲間に向けても伝えたい事なので、腰砕け文でいくだす。わはは。地下猫さんごめんなさい。許してね。えへ。
先のエントリーでid:tikani_nemuru_Mさんと少しお話させて頂きました。その中で、私が「性表現にはクィアな欲望ではない表現もある」と書いたことを、地下猫さんが「性差別に便乗した娯楽」と表現された点に引っかかりを覚えて、またズルズルとお正月考えておりました。そんな考えた事をずらっと。

創作者の責任て?

id:NaokiTakahasiさんの「サザエさん論」にpapaさんはほぼ同意します。谷川俊太郎の言葉を借りれば「詩人は言葉の真贋には責任が無い。言葉の美醜に責任がある」と同じ事を「サザエさん」を通して論じている、と理解したからです。
これはまさにその通りで、創作者、特にフィクションを扱う創作者に、真実についての責任は取り様がありません。創作者は物を作る人であって哲学者や社会学者ではないし、そうある必要もないからです。ただ、創作者は現実の人々を見て、それを描きます。それが正しいかどうかは関係なく。それを「現実を表象する」と言います。
うむ、難しいね。なんか矛盾したことを書いているようにみえるね?でも大丈夫。矛盾はしていません。
理想的社会の有り方を、どういった社会が理想なのかということを知っている必要は無い。ただ、創作する場合に創作者は自分の身の回りの社会を見て、それをモデルにして描いている。アタリマエの事を言葉にしただけ。
つまり、フィクション作品とは現実を映す鏡のようなものです。長谷川町子の「サザエさん」も作られた当時の世相を反映しているはず。今の時代に照らし合わせて「おかしい」とかいってもそれはしかたがない。作者もお亡くなりになっているし、著作権の関係で「現代風」にアレンジすることも難しいのではないでしょうかね。だから「サザエさん」は創られた当時の世相を反映したままの世界観で作られ続けています。
だから地下猫さんの言っていることは正しい。世の中から差別が無くなれば、当然性差別を扱った作品も無くなります。人々はそういう生活をしなくなるから。そしてクィアな欲望を持つ人たちは、それを自由に表現できるようになるはず。それを押し留める障害は無いから。だからポルノも多様化はするけれど、無くなりはしないだろうな、とは思います。欲望を押し留める必要もないから。性差別が無くなれば性の解放もされるかもしれない。ま、現実はよりキビシクなるかもしれんけど。いろいろ性的な意味で。
それでもなお、性差別的表現を求めるならば市場にニーズを出し続けることです。商売てのはよくしたもので、ニーズがある市場には商品が必ず存在します。「サザエさん」が時代に合わなくなっても創り続けられるように。そのニーズを出し続けることで差別されるなら、声をあげなければならない。それだって明らかに性差別であるから。

フィクションがフィクションである為には?

でもフィクションてのは結構フクザツなもので、しぱんっと割り切れるものじゃありません。私達が楽しんでいるフィクションもそう。そう簡単に現実と手を切れるものじゃありません。どこかにそっと忍び込んできます。現実ってヤツは。それは「神話」とか呼ばれたりします。papaさんは既成概念かなぁ、と思ったりしますが。小難しいお話じゃありません。「オタクってオフロ入らないんでしょ?」とか「男の子は泣いちゃいけません!」とかです。オタクにも色々あるわいや。男だって悲しけりゃ泣くわい。人それぞれじゃ、放っといてちょ。なかなか放っといてくれませんね、世間様は。性的マイノリティの方々は私達よりそういう既成概念に強く縛られていらっしゃいますよ、というお話。
縛るのは世間様だけではありません。自分で自分を縛り付けていることもあります。男なんてその典型でしょ?イヤだなぁ。papaさんはフィクションてのは、この既成概念から自由にならなきゃ、「まったくのフィクション」にはなれないんじゃないかなぁ、と思っているワケです。どうしたって「現実を表象」してしまうわけですから。もちろん、「現実を表象した」創作物を規制したり、押さえ込んだって現実は何も変わりはしません。大切なのは現実社会を変えていくこと。でもpapaさん、今はそのお話はしません。まだよく解ってないし、政治的お話がニガテだからね。

ファンタジーを作り上げるって?

これってなかなか難しい。でも、フィクションをファンタジーとして楽しむ為には考えなきゃいけないことなんじゃないかな。ここで私の好きな「百合物」を例に考えてみましょう。
マリア様がみてる」papaさんはこれが好きでねぇ。アニメのオープニングにはMP吸い取られる思いがしますが。この作品に描かれているのは同性愛ではありません。それは上級生から下級生への「姉妹愛」であったり、深い友情であったり、まぁなんつーかぼやかされています。(一人、同性愛な方もいらっしゃいましたが)それでも嫉妬や疑惑などの愛情に付き物の愛憎劇も描かれます。それを破綻させない為の装置が「お嬢様学校」であり、「上流社会のお嬢様」という設定だったりします。知らない世界を作り上げれば、あとはファンタジーな世界ができあがるのです。だから、別段同性愛についてキチンと描かれていようがいまいが関係ない。あれはアレとしてとても良い物です。
一部では「アレは百合じゃない」との声もある「処女はお姉さまに恋してる」ですが、papaさんはコレもお好きです。主人公の宮小路瑞穂は男性です。だから「百合」じゃない、と言われるですが、ここにも「女性に混じって生活してもバレないくらいの女装」ができる、というファンタジーがあります。できっこありませんて。ただし、この設定があることで、すべての恋愛は異性愛となります。まあ、「男性と知って好きになる」「男性と知らず好きになる」「上級生として尊敬から好きになる」といくつものパターンが生まれ、主人公自体も「男性としての自分」「お姉さまとしての自分」という二重構造のお話を展開します。「男らしいお姉さま」との評価もさもありなん。いや、オトコですから。
それを見ている方も、一瞬迷わされます。「あ、そういやこいつ男だったわ」と気付かされるシーンも用意されています。幼馴染のまりやとのルートはそういうファンタジーが比較的少なくなっています。お互い正体をしっているからね。貴子さんルートが一番百合百合してるかな?アニメにもなりましたが、papaさんはゲームのほうを先にやってたので、正しく評価できません。ずいぶん補正をかけて見ていたと思います。おもしろかったけど。
おとボク」はこうした複雑な構造の世界観をうまく構成した作品だと思います。作中の恋愛は全て「異性愛」。何も問題はない。(ここにも一部同性愛の方もいらっしゃいますが)瑞穂が男の子であることすらファンタジー
それに対してpapaさんの評価がキビしいのが「ストロベリー・パニック」。一応、全寮制のお嬢様学校という設定(しかも三つも学校がある)なんですが、なんか「お姉さま」を選ぶ、という王道設定もあるんですが、そこで描かれるのは「プレイボーイ(ガールか?)の王子様が主人公を見初めて魅かれて結ばれる」というヘテロ恋愛ものを女の子でなぞっただけ。おまけに「同性愛者は即セックス」「同性愛は一時の気の迷い」的な既成概念も時折みられます。ツマラン。いや、それが楽しい人には良いんですけどね。せっかくファンタジーとなりえる設定をしていながら、それを生かすことなく、既成概念に縛られた創作をしてしまう。そこがpapaさんには引っかかるのですよ。
ファンタジーでなく、キチンと同性愛を描く作品もあります。それが「青い花」であるとpapaさんは思っておるワケです。ふみちゃんは、杉本先輩と出会う前にも千津ちゃんとお付き合いしていた(フラれましたが)ゲイの人です。そして杉本先輩はふみちゃん以外にも男性を好きな人でした。その他の人物もゲイだったり、ヘテロだったり様々。偏見もあったり無かったり。キレイな先輩に憧れるだけだったりもします。とても自然な展開だな、と思います。「リアルだな」というのはそういうこと。papaさんヨメも女子高で女子大の人だったりしますが、マリみてを見せても「これはないわ〜」と笑っています。実際そんなモンでしょう。papaさんお友達に男子校だった人もいますが、男同士のカップルなんぞ見た人はいません。でもそういう人は隠されて、発言する事もなく存在します。差別というのはそういうことです。

オシマイに?

そういった性に関する(それ以外も)既成概念について考えることなく、創作することは差別を助長する可能性があります。既成概念の再生産、といったりもします。描くな、ということではない。描くならば、キチンと知ってから描こうよ、ということです。児童性愛についても同様です。papaさんは、不覚にもロリ漫画の読者には「大人と恋愛したがる児童なんかいねぇよ。ましてやセックスで快感なんて感じネェよ」というのが共通認識としてある、と思っていました。だからロリ漫画はファンタジーとして成立する、と思っていたのです。http://francesco3.blog115.fc2.com/blog-entry-133.htmlこちらのエントリーを読んで、大分揺らぎました。えらいこってす。おまけにブクマコメントで「自分は幼い頃、それを望んでいた」と告白する方まで現れて、びっくりしました。こういう方がいらっしゃる限り、ロリ漫画はファンタジー足りえません。現実を表象してしまうからです。個人的性愛はともかく、(個人のことですから)児童を性犯罪(ポルノ撮影、売春等)に巻き込むことは犯罪です。それを描くならば、それについて知っておく必要があります。何も知らずに思いに任せて描くことは、犯罪を助長する可能性もある。犯罪のエクスキューズ(言い訳)に創作が使われてはいけません。その上で、いかにフィクションとして作り上げるか、が問われるのでは無いでしょうか。モチロン、それは「社会的責任を取れ」ということではありません。「創作者としての倫理観(道徳的なことについて考えたりすること)」の問題ではないでしょうかね。つまり「犯罪や差別を助長、なんてウゼェよ」と思うなら、考えずに描けばよい。それがおもしろいと思うならば。ただし、それは読者に伝わってしまうよ、程度のことです。自己表現ってそういうことでしょう?
まぁ、このあたり色々な思考があるかな、とは思います。いろいろ考えてみて欲しいな、とも思います。
そんじゃあ、今日はこのへんで。アケオメ。コトヨロ。