アウシュヴィッツの抑圧者

抑圧者の人権
http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p1
http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p2
さて、いつも通り反省文などを認めなくてはならない訳だ。いつものことだ。上のダイアリーに私が最初に付けたブコメがこれだ。

なんで「こんな社会を変えよう」という対策は考えないんだろう。

それで当然、理由を訊かれる事になる。

よく分からないのですが、私が「考えていない」というのはいかなる理由から導き出された推論でしょうか。その対策というのは曽野綾子を批判することでしょうか?(それなら批判しているわけですし、id:hokusyu氏も見える部分ではそれ以上のことをしているようには見えないのですが)。ご説明いただけるでしょうか。

なるほど。しかし、私はさほど頭を使ってブコメした訳ではない。よって単純な答えになる。

書いてないから。

アホウではある。しかし正直だ。

追記:『KIM625 書いてないから』との書き込みあり。考えていないとの書き込みもないですよね。その論法で言うならばあなたはid:hokusyu氏の基本的人権軽視について何も指摘していないので、あなたは人権侵害の発想を拡大させる加害者だと思います。

まぁ、負けん気の強いお言葉である。それに答えるアホウは

よく読んでないけど、んならそれでいいでーす。オレはよくあつしゃだぞー。がおー。

宣言などせずとも、この日本に男性として生まれ、妻帯者となり、社会に仕事を得て日々糊口を潤している時点で私はすでに抑圧者だ。馬鹿者。もちろん、馬鹿者とは私のことだが。

アウシュヴィッツの収容者

すでに疑問はharutabeさんへのエントリーに書いていた。アウシュヴィッツの収容者は看守の人権に配慮せねばならなかったのか、というヤツだ。当然、まっぴらゴメンだ。ただ、その答えは私が被抑圧者の立場で書いた。こと今回の問題では立場は逆だ。私は抑圧者で女性は被抑圧者なのだ。では私の人権は?当然、彼女らの手の中にあるのだ。ナゼ?それが平等ってヤツだからだ。我々抑圧者と被抑圧者が平等な立場に立つには、それしかないではないか。それはイヤだと考えるなら、被抑圧者をまず、解放しなければならない。我々の人権を取り戻すために。
それでもなお、私は粛清されてしまうかもしれない。
高橋亨さんのhttp://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/aml16523.htm:対抗言論より。

言うまでもないこと(というか、あまりにも当たり前なので誰もわざわざ書かないこと)なのですが、拷問はいけません。
たとえ目の前にいるのが絶滅収容所で単なる気晴らしのために気ままに抑留者を撃ち殺していた[1]親衛隊員だとしても、たとえ何十万人もの人間に、苦しみぬいて餓死するよりはましだという意味で「慈悲深い」ガス室による即効的死を与えた収容所司令官だとしても、たとえ取り調べる側がナチの形容し難い残虐行為にどれほど打ちのめされていたとしても、あるいは、取り調べ官自身が何百万もの同胞を絶滅されたユダヤ系だったとしても、そしてナチが収容所で振るった拷問と虐殺の嵐に比べたら取り調べ時の暴力などどれほどささいなものに見えたとしても、それでも、手をあげてはいけません。

女性が何故、被抑圧者であるかと尋ねる人はまさかいまい、と思って書いているが。さて。

再びぐるぐる回る

もっと恐ろしい挑戦もされてしまった。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20090126/1232895600/
私のブコメ

さあ、宣戦布告されました。我々は抑圧者です。どうしましょう?

恐ろしい。私達は同性愛者を知ると知らずに関わらず、どれほど弾圧してきたことだろう。どうすればいいのか、皆目見当が付かない。一番簡単なのは殲滅しかえすことだが、これでは暴力の連鎖からは逃れられない。ホロコーストの繰り返しだ。なにより、私の人権は彼らの手の内にあるのだ。理屈は通用しない。そう宣言されてた。
そして私は涙するだろう。自分の立場に。そして捕まったルドルフ・ホェスのように叫ぶのだ。
「聴いてくれ!オレが悪いんじゃないんだ。オレがキミらを追い詰めたワケじゃないだろお」
今、飛び交っている「人権」という言葉は、こういう叫びではないのか。

ホロコースト否定論と人権

時々、違和感を覚えてブコメにしたりする件があった。つまりはこれだったのではないか、と今は考えている。
ポストモダニズムホロコーストの否定」という本にイ・ヨンスクという方が後書きを書いていらっしゃる。その中にホロコースト否定論について読解した文がある。

それまで声を奪われていた者、社会の支配的暴力にさらされていた者が敢然として発言しはじめると、社会のマジョリティから浴びせかけられる発言の多くに、同類の暴力性が出現する。(中略)否定論者は「犠牲者の発言の権威」に反発しているのであり、マイノリティからの意義申し立ての声を抑圧しようとしているのである。それは「なぜマイノリティや犠牲者の声だけが尊重されるのか。私達の声も聞いてくれ」という懇願にはじまり、ひいては「マジョリティにはマジョリティの立場があるのだ」という開き直りに行き着く。犠牲者や被害者からの証言が、これまで安心して居座ることのできた砦をゆるがしていると感じられたときに発せられる攻撃的言辞が、あらゆる否定論の本質をなしている。

で?私はいまだにぐるぐる、行ったり来たりしている。harutabeさんに書いた「だからなに?」はharutabeさんへ向けたものでは無かった。あれは私自身に向けて再び問い直す言葉だ。
抑圧者である私はどう行動し、どう考えるのか未だ解答は見つからない。女性達やクィア達が解放された暁には私は粛清されるのだろうか。せめてそれまでは寄り添っていられないのだろうか。
これはid:iteauさんへのお返事ではない。id:hokusyuさんの代理戦争をするつもりもない。ただ、私はhousyuさんの論立てがおかしいとは確かに思わない。そういう意味では確かに抑圧者なのだろう、あなたにとっては。

ポストモダニズムとホロコーストの否定 (ポストモダン・ブックス)

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