どうしようもない僕ら

さて、どこからお話したものだろう。
東京都の条例改正案は通ってしまった。あらゆる表現規制に反対を主張していた私にとって、これは敗北です。なにか総括を書かなければいけなかったのかもしれない。でも私にはこれで終わりとは思えませんでした。まだ「流通・販売の規制」が始まっただけのことです。一端決まった公的規制を排除することは難しいでしょうが、これ以上の公的表現規制を食い止めることはできるかもしれない。まだテンカウントが聞こえたわけではない。総括するには早すぎる。そういう思いから、何もまとめらしいことは書いてきませんでした。
が。

ツィッターでのこと

なんのことやら、という方も多いと思うので、トゥギャッターのまとめを。
furukatsu氏が表現規制に対する報復として性暴力を用いることを示唆 - Togetter
事の経緯はこのid:usokiさんのまとめで十分でしょう。タイトルどうこう、という方もいらっしゃいますが、私はそう偏ったタイトルとも思わない。usokiさんがid:furukatuさんの言論を封殺するためにまとめた、と言う方もいらっしゃるけれども、これは対抗言論として置かれたものなので当然です。後述しますが、ここで批判されているfurukatuさんの発言も批判されて当然のものです。
それに異議を唱える為に作られたまとめ。
性善説と性悪説とポルノガス抜き論 - Togetter
こちらのまとめも内容は大差ない。
この中の@crowserpentさんの、「ポルノガス抜き論のダメさ」についてのお話は傾聴に値するお話だと思います。これも後述しますが、それは「オタク差別」を無意識に垂れ流すものでしかない、ということです。
何が問題とされたのか。何を問題としなければならないのか。表現の自由を獲得するために。

何が問題とされたのか。

はっきりと書きましょう。私が男性であり、ヘテロセクシズム(異性間恋愛者)である限り、私はマジョリティ(多数派)であり、アウシュヴィッツの看守である、と。それは多くのマイノリティ(少数派)を抑圧し、踏みつけることで今の社会、アウシュヴィッツを作り上げてきた結果である、と。表現規制ホロコーストの始まりである、と例えるくらいなら、今の社会こそ、すでにホロコーストの行われているアウシュヴィッツであると例えなさい。そして、私はその看守であると。
そして、マジョリティの側からマイノリティに対して、「これを封殺されたら、俺達はお前を強姦するだろう」というのは、単なる「脅し、脅迫」などではありません。それは「今現在も行われていること」であり、「実行可能な事実」でしかありません。もちろん、それを「まあ、そうだろうな。その可能性はあるな」と肯定することも。そういうことを言う人は「檻に入ってください」というのが、以前にあった「獣は檻に」論争であった、と私は認識していて。そしてそれは再び繰り返された。「それは予防拘禁である」とその言葉を拒否した人によって。
もちろん、「俺達を抑圧するならば、お前達を殲滅する。これは報復である」という言葉だけを取り出せば、それは別段、間違ったことではない。マイノリティからマジョリティへ向けられた言葉であるなら。それが「野生の言語」であるなら。しかし、それをマジョリティが自らの特権を奪われる恐怖から発するなら、それは暴力となり、より強い抑圧・弾圧となります。
もちろん、furukatuさんはそれを「マイノリティとして」発したつもりだったのだろう、と私は思っていて。しかし、それはあまりにミクロな視点ではないか、と思います。

彼が守ろうとしたもの。守りきれなかったもの。

「オタク差別なんて本当にあるの?」
無邪気に訊ねて良いことと悪いことがある、とその質問を見た時私は思いました。もちろん「あるに決まっている。見えていないだけだ」と思うからなのですが。
以前に書いたアメブロの削除基準のお話にしても、今回はてなで起こったid:y_arimさんのダイアリー閉鎖にしても。私にはそれらが、ヘイトスピーチを放置して、真っ先に規制しなくてはいけないものとはどうしても思えない。それはポルノに準ずるような絵になってしまう場合もあろうけど、美しい絵を描く人の絵がいつも美しくなる、とは限らないし、そうである必要も必然もありません。創作者は自らの審美眼によって創作するので。「私の美しさとあなたの美しさ」は違って当然。そこに「作者の意図」を読みとれない読者によって規制は行われ、それは創作に対する冒涜でしかない。
そして、同性愛者に対するヘイトスピーチより、パンツの見えてる女の子の絵を優先して削除対象とする態度を「オタク差別である」と私は言います。それは見えてはいないけれど、そこには確実に存在する。
そしてfurukatuさんが守ろうとしていたものは、その「オタク達」であったことを私は知っているつもりです。しかし、男性社会にヒエラルキーがあり、オタク達がその中のマイノリティであるから、と言っても、そのオタクが男性である限り、(女性オタクについては今回はお話できません。私の無知によります)この「男性ヘテロ中心主義」の社会では所詮マジョリティである、という視点を欠いては守るものも守れなくなる。それは現在の被抑圧者をさらに抑圧する結果となるのではないか、と私は考えていて。そして今回の件でそれは実体化した。
私にとっての今回の件の問題点はそこにあります。
同時に「オタクはマイノリティである」視点から脱しきれないfurukatuさんの「他のマイノリティへの抑圧も辞さない」姿勢を苦々しく重いながらも、私は認めていて。そこは「議論というマラソン」について書いていたエントリーでid:pokoponさんに指摘されていた、「考えの緩さ」では無かったかと思えて仕方がない。

もっと問題はあって。

私はそういいつつも、今回はfurukatuさんを擁護していました。それでusokiさんにもいろいろご迷惑をかけてしまいました。そこは改めて謝罪したい、と思います。
私が擁護しようとしていたのは、furukatuさんの論ではなく、furukatuさんご本人です。それでは彼を何から守ろうとしたのか。守れなかったのか。
それは「ネット上の集団による言葉の暴力と切断処理」です。
私はツィッターとかハイクでも議論をあまり好みません。どちらかというと、エントリー間でトラバをもって行われる議論が好きです。読むにしても、書くにしても。それは一対一で行われる「言葉の応酬によって磨き上げられる思考」が好きなのであり、議論というのはそうして行われるものだ、という私見によります。
今回のまとめのコメント欄に見られるようなことで、なにか結論に至るとは思えなかった。そこでの目的はfurukatuさんを集団で責めることにより、規制反対派(そういう派閥が存在するなら)から切断するための行為としか思えなかった。そして、それは一部のコメントを除いて「性表現を規制すれば性暴力に走る」論と「報復手段としての性暴力を容認する」論に対抗するようには見えなかったし、そうは理解できなかった。
furukatuさんを擁護する声にしても、「お金が無くなれば人は強盗する」「餓死しそうになれば人から奪う」というのは擁護にもなっていし、言語道断です。それは「男は獣」と何も変わらない。furukatuさんは獣ではありません。
切断処理の何が問題なのだ。ああいう論があっては不利になるだろう。との声もあるでしょう。それは「在特会はクソだが自分は違う」というのと同じです。何度も書いてうんざりでしょうが、「彼らと自分達は同じ市民」です。私は何かの拍子に在特会に同調してしまうかもしれない。私の思想が彼らと同じものになってしまうかもしれない。(実際、私は表現について被害者と協力しあえないならば、furukatuさんに同調するつもりでした)
在特会と私は地続きです。そしてfurukatuさんとも。もちろん、あなたも。
大切なのは自らの思想を常に見直すこと。石原都知事の発言を責めるなら、「自分の守っている表現に同じものは入っていないのか」常に問うことでしょう。どこが異質かを問うのではない、どこが同質かを問うのです。hokusyuさんのいう「不断の思考と実践」とはそういうことではないでしょうか。
もうひとつ、問題点があるとすれば、「切断処理と対抗言論はどう違うのだ」ということかと思います。今回usokiさんとid:tikani_nemuru_Mさんが主に対抗言論を張っていた、と私には見えるのですが(いや、usokさんはまとめを作ることを対抗言論とした、というべきか)、詳しく解説しろ、と言われると戸惑ってしまいます。個人を切断するのではなく、「論を封じる」ことが「対抗する言論を置く」ということかなぁとは思います。その為にはfurukatuさんの思想に、深く切り込んでいくことが重要になっていく。切断処理することと、対抗することの差違が見えずらくなるのはここだろう、と私は思いますが。そして、私の考える大きな差違は「書かれたことに対抗する」ことでしょうか。これはまた、「議論というマラソン」で指摘された点でもあります。とても難しいこと。また大切なこと。まだ理解しきれないこと。
一つ言えるなら、furukatuさんはどこかできちんと反論を建てなければならなかった。

しかし、彼は。

先日ツィッターアカウントを削除し、自らのダイアリーを閉じてしまった。furukatuさんの日頃していた主張は「全面的に間違っていた」と自ら認めた、ということです。それ以上でも、それ以下でもない。それだけのことです。非常にクソッタレなことですが。
彼が日頃言っていた「全面的にオタクの側に立ち、オタクを全面的に擁護する」という立場を放棄した、ということ。
表現の自由」という御旗の基に、「すべてのゲスな表現物を擁護する」という立場を放棄した、ということ。また、「今までマジョリティとして、多くのマイノリティを見捨ててきた自分は、今更一部のマイノリティを擁護することに意味を見いださない」という立場をも捨てた、ということ。
失望を禁じ得ない。
私はその割り切った思想に一定の評価を持っていましたが、今回の「全てを畳んで逃げ出す」行為を許容はできない。このまとめは本来、あなたがやるべき(あえて「べき」を使います)ものだ。戻ってきてまとめてください。あなたに求められているのは、謝罪も自己否定でもなく、そういうことです。