霧の中

ひとつの記事がありまして、まぁ私が激昂するなど珍しいことでもないんですが、ちとグズグズと燻るので首を突っ込んでしまいました、と言うお話。
ブコメなどでご批判も頂いていることですし、エントリーにして一回締めようと。

ツィッターのまとめであるトゥギャッターでのこと。

今回、当事者の方とは直接ツィッターでやりとりして、自分的には納得いったので、まとめ自体にはリンクしません。もちろん、発言者、まとめ主にも。これ以上執拗に取り上げることは、いわゆる「曝し上げ」になるかな、と危惧してのことです。そのせいで主張がぼやけてしまっていたら御容赦。
まあ、前回にもこんなことやって注意されているんですが。ちょっと性質が違うからいいかなと。

「FUCK ASS」

まずは「FUCK ASS」お笑いと差別とホモと - Togetter
内容的には「ゲイを笑いのネタにして良いのか」みたいなこと。問題なのはこの中でいわゆる「マイノリティ」の人達からそれを容認する発言があること。そしてそれを意識的に取り上げることで、「ゲイを笑い者にする」ことを肯定しようとしていること。「ゲイを笑い者にする」表現が善か悪か、と問われれば私には「善か悪かはともかく、それは発表されなくてはいけない」としか答えられません。そして、それを受け入れられない人は作者にツバを吐きかければ良い。その作品が芸術であるかどうかは関係がない、と思います。しかし、このゲイフォビア(同性愛嫌悪)の溢れる社会で自分のフォビアを肯定するために、その「ゲイを笑い者にする」事を肯定してくれる言葉を利用することは「悪い」と考えます。
今回これと似たような感覚を感じました。マイノリティの人達のもいろんな人がいて、それぞれ違う環境で生活し、それぞれが個性的な意見をもって行動しています。それを否定、もしくは批判したいわけではない。それは個人の自由です。私が今回批判したのはその様々な意見の中から、自分に都合の良い部分を持ち出す、ということ。今回は「性暴力被害者にも性暴力表現を容認する人もいる」ということでした。これ自体は何も批判されることではない。一方では「性暴力表現を不快に思う被害者」がいて、そうでない人もいる、というだけのことです。(最も今回の発言者の方は「実際に犯罪されるくらいなら、表現物で終わったほうが良い」ということでした。それに自分の発言で他の被害者の方々への影響も心配されていました。)そのことで、どちらかが相殺されることではない、はずです。しかし、そのことを殊更に取り上げる、ということは、「不快である、と声を上げる被害者」へのカウンター(反論)としての意図があるのではないか。被害者が声を上げたとき、「そうでない者もいるではないか」と口をふさぐ材料とするためではないのか。(今回のまとめ主の方ははっきりと「そういう意図はない。少なくとも意識はなかった」と言明してくださいました。)それは被害者同士の対立をいたずらに煽るだけではないのか。(少なくともそれを持ち出された側は、発言自体を不快に思うだろう)
そして児童犯罪におびえる「PTA父母の署名」という言質を取って、改正案を通そうという東京都とどこが違うのだろう。

ユダヤ人のリヴィジョニスト

ホロコースト否定論者であった人にデビット・コールという人がいます。「コールのガス室検証」などのビデオなどを作った人です。彼はユダヤ人でした。彼がユダヤ人であることは、ホロコーストを語る上で何の意味もありません。私が日本人であることに何の意味もないように。
しかし、ホロコースト否定論者は声高に言います。「被害者であるはずのユダヤ人ですら、ホロコーストに懐疑的だ。ホロコーストには疑惑がある」と。そしてコール自身が「ホロコーストを否定したのは間違いだった」と言った後も、そのビデオを売り続け、彼の名前を利用し続けています。
そして今回私が例として取り上げたように、「裏切り者のユダヤ人」のレッテルを彼は貼られ続けます。(今後は私も彼のことは取り上げないつもりです。)
この構造を作り出す行為を私は「卑劣である」と、「悪い」とはっきり言います。
今回の構図はこれと同じようになってはいないだろうか?

ブックマークコメントを受けて

まず、最初に私がつけたブックマークコメントを貼っておきます。

KIM625 なんか前にもあったな。「ゲイが認めてるからゲイをネタにしてもいい」みたいの。/あなたはそうなんでしょうよ、あなたはね。※id;コールへの返答は省略

まずは最初の批判として

id:skeleton-lair この件にレイプ被害者が元より無関係と感じるのでどうでもいい。が、関係あるといいながらこれを無視するのはどうなの?/id:KIM625それ性暴力表現に苦しむ被害者にも言うんだろうね?ちゃんと"見ろ"よ。

当初は意味が解らなかったけれど、冷静になって読めば解った。つまり、これは「あなたはそうなんでしょうよ」という言葉はそのまま「性暴力表現を不快に思う被害者」にも向かう、ということ。激昂のあまり筆が滑ったところは確かにあるにせよ、その通りだと思うし、書いた時にはそう思っていたのも事実。
しかし、この言葉はすでに「性暴力表現を不快に思う」人達に投げられてはいなかったか。「快・不快で善悪を判断されちゃたまらん」など表現を変えて、投げられてはいなかったのか。元より、「創作物の善し悪し」に快・不快は関係がない。一部の人に不快な表現でも創作者が必要と感じるなら、それは創られなければならない。
あまりに創作者寄りすぎる、と批判されたこともあるが、創作するとはそういうこと。
そして、それが「関係ない」ことであるなら、言及しないというのが誠意というものではないか、とも思う。今回の「悪書とは思わない」発言も「あー、そういう人もいるんですね」で終わって良い話。しかし、それは殊更に取り上げられた。
では「不快である。見たくない」という声は無視するのか。私はできるだけ寄り添いたいと思っていますが、他の人に強要できることではない。「作者の倫理観に頼る」と考えてもいましたが、地下猫氏の「倫理観などという不安定なものには頼るな」という言葉を受けて考え込んでしまった。未だに悩んでいるのです。

id:inukorori 犬のメモ id:KIM625>「するべきではない」とか最初のコメントにも書いてない< 自身の議論である「対抗原論はそのためになされる」と矛盾してませんか?

以前にも書いたのですが、私は「べき論」があまり好きではないのです。だから、どうしてもという場合以外には使わない。
今回はたまたま先方が「私の意見は「間違っている」だがあなたの意見は「するべきではない」なので言論封殺」と言われたので「書いてないよ」と言ったのです。「対抗言論」についてはヘイトスピーチを封殺するために成されるので、ある意味言論封殺言えるでしょうね。今回は対抗言論、というかカウンターとして置いたつもりはないです。(それならばまとめの削除を要求するでしょうね。今回、私は何の要求もまとめた人にしていないし、まとめ自体もなんの変更も追加もなくあるはずです)

終わりに

私自身にホモフォビアが無いとも言い切れない。実際、私が百合物は好きだがへヴィーなレズものは敬遠したり、BL系の漫画はスルーするのはその現れだろうと思います。もちろん、今回のことも筆が滑ったとは言え、そう思っていたことも事実ではあります。そして、ブックマークコメントを書くとき、ツィートするとき、「あれ?あれ?」と思うことは頻繁にあって。私自身は差別者でない、とはとても言い切れない。
だからこそ、私は私が抑圧者であることから解放されなくてはと思うし、その為にも被抑圧者の声にを聞き続けたい。声を上げ続けて頂きたい、と思っています。自分が抑圧者であり、差別感情を持っていることを確認しつつ一歩でも前に進みたいのですよ。