ちょっとタンマって言えること

※このエントリーは見えないことは無いことではない。 - PaPaのスローマンガライフからの続きになっております。前エントリーとコメント欄をお読みにならないと理解しづらいかもしれません。
はい「ちょっとタンマ」して頂いて、整理しながら考えておりました。どうして「ちょっとタンマ」したのか、と言えば様々な方からの新しい考えが、次々と語られ、それに返答していく中で「あれ?オレの最初に考えていたことって何だっけ?」「なんか書いてる事がどんどんズレて行ってる気がする」状態に陥り始めたからです。みなさんの主張に引きずられてしまう、私の悪い癖です。ちょっと待って頂いて、コメントではなくエントリーにしたのもそういうことです。

議論するということ

議論するということは悪いことではないはずです。議論というのはお互いに反発しあうことはあっても、そのために行われるものではない。その反発を埋めるために行われるものだと思います。だから、最初から「お前が何を言っても聞く気は無い」人とは議論になりません。最初からコミュニケーションは断たれている。
例えば、私は性犯罪と創作物に関係において、データなり証明を必要とは考えていません。例え性犯罪に創作物が深く関わっていたとしても、公権力による表現規制は認めません。ですから「表現規制問題」のなかで性犯罪データの真偽に関わる議論をする気はまったくない。それが、一部の隙も無い、完璧なデータであったとしても、私の主張には関わり無いからです。(当然、その逆であっても関係が無いです)
私にとってそういう議論をする人は「創作物が性犯罪に深く係っているならば規制されて当然」という立場の人です。又は「正確なデータがあるなら規制されて当然」という人。私はどちらの立場も取りませんので、データなり検証結果なりが出たならそのまま受け止めます。真偽を問うことは私にとって意味が無い。私と「性犯罪データと創作物の規制」について議論はできません。そこは最初から断たれている。「ポルノはえっちだからよくない」と言う人と「えっちでないポルノに意味は無い」と考える私とコミュニケーションはできないでしょう?しかし、そういう自分の立ち位置をはっきりさせること、それを「知的誠実さ」だと私は思っています。そして「知的誠実さ」は議論にはとても大切だとも。

議論は暴力たりうる

とも考えています。例えば、私が性犯罪データの正確さについて議論することは暴力足りえます。私にとって、正確さの度合いは議論する際にこだわるところではない。どこまでも正確さを追求し得る。一年間の調査によって得られたデータは「調査期間が短すぎる」と。ポルノに影響されて犯罪を犯した、という証言は「自白強要があるので信用できない」又は「サンプルケースが少なすぎる」と言えます。
データなんぞ最初から関心ないのですから何とでも言えるのです。
こういった議論はハラスメント足りえます。
ポストモダニズムホロコーストの否定」のイ・ヨンスク氏による解説にひとつの実例があります。
「私の名はリゴベルタ・メンチュウ」という本を書いて、グアテマラ政府が先住民に加えてきた虐待と抑圧を告発し、1992年にノーベル平和賞を受賞したリゴベルタ・メンチュウという女性に対するデヴィッド・ストール(David Stoll) という人類学者の批判がありました。

(前略)
グアテマラをフィールドとする人類学者ストールは、その本で語られた事実のなかには多くの嘘と誤謬があることを、「実証的」研究方法によってつぶさに暴き立てた。そしてストールは、メンチュウの学歴、職歴、訴訟にいたるまで、現地調査を通じてつぶさに調べあげた結果、メンチュウの証言は信用できないと結論づけるのである。(中略)太田氏は「これまで発話の権威について問われずにきた白人男性が、それを問われ始めたときにみせる当惑と憤怒がストールの主張には読み取れる」と明快に指摘している(『民俗誌的近代への介入』224ページ)。そして、こうしたストールの「実証的手法」を批判して太田氏は、「メンチュウの言葉は歴史的資料ではない。……証言というものは現実を写しとることばであると解釈しては、証言のもつ力の半分しか言い当てたことにはならないだろう」と述べている(同書、215ページ)。
ポストモダニズムホロコーストの否定 98〜99P〈解説〉マジョリティの「開き直り」抗するためにより

※太田氏とは人類学者 太田好信氏のこと。
なお、メンチュウはストールの指摘を認めています。少なくともストールも嘘を書いた訳では無かった。悪意に解釈すればストールはメンチュウの言葉を嘘とするのは無理なので、彼女の信用が傷つけられれば良いと判断したのでしょう。こういう時ハラスメントは現れ、二次加害が起こる。正しさとハラスメントは関係が無い。論の正しさはハラスメント、二次加害ではないことを担保しません。こういう場面に議論の暴力性は表れる。

議論を暴力としないために

何ができるのか、できないのか。「骨折してマラソンが走れない」人をどうするのか。
逆に考えれば「骨折していても走れるマラソンのような何か」を作ることは逃げ場を奪う事になるのかもしれません。「言いたいことだけ言えて、議論に参加しなくても良い場所」を作ることは、そこに逃げ込む悪意を肯定することになるかもしれません。どこかのブログのコメント欄で、議論した末に「私もあなたと同じ性暴力被害者です」と書き込んで去った人がいた。その真偽は確かめようが無い。しかし、その言葉に含まれる悪意はそこにいつまでも漂う。
ハラスメントと知っていても、言及しなくてはならない事は確かにあります。しかし、そこで重要なのは「ハラスメントと知って」いるかどうか、ということ。また、それが自分の中で「ハラスメントと知っていても言及せざるを得ない」ことであるのかどうか。そしてそんなことがネット上のテキストに表現できるのか、読み取れるのか、ということ。
もちろん、自分の事は自分が一番解っているはずなのですが。さて。
公平であるのかどうか。公平であることがそんなに大切なことなのかどうか。もちろん、公平な議論、というのは否定されるものではありません。では公平な議論とは?骨折していても同じ競技場でマラソンを走ることなのか。では骨折していないのに、マラソンから抜ける者は公平であるのか。そんなところまで読み取る必要があるのか、どうか。
ホロコースト否定論者とのお話でこう言われたことがあります。「肯定論者は不公平だ。肯定論側にはキチンとした資料も学術的背景もある。一方的な議論で打ち負かすのは公平ではない」
では何故否定論を支持しているの?
私が言っているのはそういう公平さではありません。メンチュウの証言を傷つけない公平さです。そこに現れる「議論の暴力性」を取り除けるのかどうか、ということです。そこは当然、「各自の自覚」に収まってくるのでしょうが、それをネット上のテキストでどう表現すれば良いのか、読み取ればよいのか。また、悪意に読み取られることは無いのか。悪意に読み取ることはハラスメントでは無いのか。それでも悪意に読み取らなければならない理由とは。

感情的になってしまう私達

どうしても逃れられない事、といえば「感情的になる」ことです。これは私もなりやすい。短気なんです。ムっとすると脊髄反射してしまう。しかし、怒っている人が感情的になってしまうことは悪いことではありません。当然のことです。では何故怒ってしまったのか。私はどうしてその人を怒らせてしまったのか。問題なのは怒った人ではなく、怒らせた人でしょう。もちろん、その人に怒られる覚えもないのに怒られる時もあるでしょうが。それは何か計り知れない「事情」があるんでしょう。説明してもらわないと解らないけど。「説明する」ことと「感情的である」ことも随分遠いことな気もします。
私はつい自分が感情的になってしまい、そのことで相手も感情的になってしまった場合は、その場から消えるようにしています。それは相手の感情を丸呑みすることではありません。単に私がそれ以外に感情的になった相手を諫める方法を知らないだけのことです。「大人だから丸呑みしろ」というのは相手を子供として扱うことのような気がします。

泣いているのはあなた?それとも私?

「どこかであの娘、きっと泣いている。私が行ってあげなきゃ」そういう時、泣いているのはどこかの女の子ではなく、その人です。閑話休題
表現規制問題」というのは構図としては「弱者どうしが叩き合う」構図です。「性暴力表現に苦しむ人」と「性暴力表現をする人」どちらがよりどうだ、ということではなく同様に「弱者」です。性暴力表現に苦しむ人達の様子は性暴力表現をする人達にとっては「ネタ」で有り得ます。そのことを忘れてはいけない。だから理性的な「性暴力表現をする人」は苦しむ人達と対話はしないし、できません。またはその「性暴力表現をする人」という存在そのものが脅威足り得ることも。
それはキチンと対話する方はいらっしゃいますが、負担になっているであろう事は忘れてはいけないと思います。私は「性暴力表現」はしませんが、キチンと対話する人達を眩しく思っているし、その人達のことが良く理解できるまで、対面して「表現規制問題」についてお話する勇気がありません。もちろん知らないうちにお話していることはあるでしょうが、知らないのは私の問題であってその人のせいではありません。そんな説明責任はない。そこにあるであろう精神的負担が取り除かれない限り「直接対話せよ」とは私には言えません。それは論者ではないことではありません。私自身の内の問題ではあります。
そして、追い詰められた弱者(マイノリティ)が仲裁を頼める唯一の立場、というのが公的機関であると佐藤亜紀氏は述べられていて、私もそれに同意せざるを得ません。そして公的機関による仲裁ほど、どちらの為にもならないものは無い、とも思っています。だからこそ、私達は議論し、理解しあうことが大切だし、その為にも「議論の暴力性」は取り除かれるほうが望ましいと考えているのです。はっきりいえば自分勝手なのかもしれません。

最後に

前エントリーで頂いたご意見等を合わせて、今回色々考えて見ました。有難うございました。お答えになっている面もあれば、そうでない面もあるように思います。
焦点となるのは「議論の暴力性」をいかにして取り除くのか、という点かな、と今回は考えています。議論の新しい枠組みという最初の観点からは聊か後退したような気もします。困った。
「ネット黎明期から延々と続く問題」というご指摘も頂きましたが、これは本当にそう思います。実際に起こる事件だけでなく、「ネット上での議論」にまつわることとして考え続けていきたいと思います。
またお知恵を拝借できたら幸いです。