見えないことは無いことではない。

さて、書こうかどうしようか迷ったのだが、一応書いておくことにしたい。なに、場末のブログであることだし、具体的なことに触れなければ支障なかろう、と言う判断で。

すぐそこにあるハラスメント(嫌がらせ)

セクシャル・ハラスメント(性的嫌がらせ)、パワーハラスメント(職業や特権を利用した嫌がらせ)、モラル・ハラスメント(精神的嫌がらせ)など聞いたことはある人が多いのではないでしょうか。私はこれらハラスメントは基本的に「被害者がそれであると認識した時に現れる」と思ってます。加害者側の都合、心境、意識は関係ない。同じことを違う人に行っても一方はなんでもなくても、他方にとってはハラスメントとなる、ということ。男性にブサイクと言ってもハラスメントでは無いが、女性に言うとハラスメント、というような話ではない、ということ。どちらも人によってはハラスメント足りうる。要は被害者都合で決めて良いと思っているわけです。そうでないと、被害者救済にならないでしょ。加害可能性のある側で基準を決めたのでは、弱者である被害者は口を噤まざるを得ない状況が多くなるはずです。基準を明確に決めるほど、弱者救済からは遠ざかる。セクハラについて男性が「メンドクセェなあ」と思う原因もここじゃないかな。?しかし、女性の身体に触れたらセクハラ、では恋人のても握れないと言う事態になります。(嫌がる彼女の身体に触れるのは、例え恋人どうしでもハラスメントですよ?気をつけて。)「ただしイケメンを除く」とか揶揄される所以だけれども。実際はイケメンであろうが、ブ男であろうが、嫌がっている女性に触れればハラスメントです。基本は対象の女性の気持ちですから。また、仕事終わりの飲み会にむりやり連れて行かれるのもハラスメントでしょう。自分が作った同人誌を配布して回る度に「その作品は公序良俗に反する。配布を自主規制しろ」と言って回られるのもある種ハラスメントであろう。だからやめろや、東京都。んで大阪府
で、ほとんどのハラスメントは加害者本人は気がつかない場合が多いらしいです。気付かないもんだから、「なんでオレの行動がセクハラやねん」と追求してしまう。されが更に被害者への嫌がらせとして機能してしまう、負のスパイラルみたいのが起きてしまいがちです。なかなかに複雑で難しい。

ある一件

ここは簡単に。
だから、被害を訴える人が「ハラスメントである」と言ってしまえばハラスメントです。そこは素直に謝罪しあって、他の点については改めて話し合うしかないでしょう。なんかトラブルがあった時にはこれしか言ってない気がするけど、かまうものか。何があって結果がどうあれ、お二方の言説に対する私の信頼感は揺るがない。
対象はぼんやり淡くしてみました。

骨折していてはマラソンは走れない。

当然です。脚が折れていては走れない。しかし、それはマラソンへの不参加を表明することになる。マラソンに参加しないと、マラソンでの評価はつきません。それどころか不参加の人はその存在すら認識してもらえないかもしれない。走らなくては意味が無い。では折れた脚で走れるのか。
それは無理だ。それこそがハラスメント足りうる。
では、片足でちょんちょん飛び跳ねてでも参加するのか。なぜそこまでしなくてはいけないのか。
ここまでは比喩です。ある人の比喩がとても的を得ていたので。良い意味でも悪い意味でも。
佐藤亜紀氏が書いていた。「差別者と被差別者が体等に話などできない。そこは差別が吹き荒れるだけだ」と。
骨折した人にマラソンを走らせるということは、そういうことではないのか。
そしてマラソンに参加させない、ということはその人の存在を消してしまうことに繋がりかねない。コミュニケーションを断絶するとはそういうことです。
ではコミュニケーションを続ける為にはそうすれば良いのだろう。マラソン以外の競技であればどうなんだろう。もしくは車椅子マラソン。ではそもそもマラソンとは。比喩を外せば「議論とは何なのだろう」ということ。

修羅となる

id:T-3donさんはブコメでそう書いてらした。これもちょっと意味が解らなかったのだけど、(どんだけ頭がお馬鹿なのかと自分がイヤになるが)それが「マラソンを走りなさい。例え脚が折れているとしても。それがルールだ」と言う意味ならば、ちと同意しかねます。いや、もちろん議論に加わらなくては(自説に対する意義を受け入れる覚悟がなければ)その存在は無視され、言葉は無かったことにされてしまう。(だから、以前に書いた「頭の中にしまっておけ」というのは間違っていた。訂正したい。)そこは同意します。しかし、マラソンでなければならない道理はない。お互いが対等に話せる場所でならば、そこがマラソンコースである必要はない。平等っていうのはそういうことではないでしょうか。ゲイが人間になる必要はない。地位としての「人間様」などない。「問いかけに答えを求める事」が議論ではあるが、問いかけること自体がハラスメントとなる場合は。議論できない相手として無視するのか、はたして。

新しい形とは

残念ながら私には見えません。もっとも私が独断で考えてどうにかなる問題でもない。ここで「疑問を受け入れない、という態度では議論に臨めない」と書こうと思っていたけれども、それすら排除しなくてはいけないのでは、と思います。意見を表明し、意義を受け、考えながら説を組み立てていくという議論のシステムを考え直すには、既存のシステムを機能させてはいけないはず。そう考えるとアタマが真っ白になることだなあ、と自分にちょっと呆れ顔。

テーマが違えば

おのずと議論のスタイルは変わってきます。私は2ch掲示板でホロコースト否定論者とうんざりするほど話してきた。そこでの議論スタイルは明確なものでした。ホロコーストについては、確固たる資料とそれを解釈する歴史学があり、それを「正解」とすることができます。(つまり、ホロコーストを否定することは現在の歴史学に対する挑戦であるということ)しかし、表現規制問題について議論するにあたっては、正解が見えない。お互いの思想のぶつけあいでしかない。俺の愛とお前の愛で殴り合い(実はこのフレーズが気に入っている)は実に言いえて妙だなあ、と。このスタイルには慣れなかった。いまでも慣れません。このようにテーマが変われば議論スタイルは変わります。ということは、やはりマラソン以外の議論ルールも作れるのではないでしょうか。
少なくとも「議論プロレス」と言われるスタイルは脱却しなければ。コミュニケーションとしての議論ならば、話し合いと同じです。勝ち負けの問題ではない、相手の考えていることを尊重することが大切になってくるだろうか。
後、自分の文脈にばかり引きつけて考えることも、邪魔になりそうではある。

終わりに

「お前、体よく他人の知恵を拝借しようってんじゃ」ああ、半分くらい当たってます。そういう新しいコミュニケーションの方法なり、ルールなりができないと、関係は断絶されてしまうのではないか、という危惧があります。「そんなん作れとか誰もいってないし」確かに誰も言ってません。でも、頼まれて考えるものでもない気がします。
これってもしかしてあの「公共圏」にも関わることなのかなて気もしてます。
なんぎ。

ブックマークコメントへお返事と質問を追加。

様々なコメント有難うございます。色々参考に考えてみます。
ちょっと解らない事とか、お返事とかを追加。
id:inukororiさん

「やめていくものは誰しもが自分からやめていくのだ」←これが修羅の道かしらん。//やめさせることを目的として行動する人を無害化する試みはあっていいと思いますがエスパー乙にならないように気をつけたいところ

それが修羅である、ということでしょうか?主張することを止めさせる、口を塞ぐというのは避けなきゃイカンかな、とは思うのですが「対抗言論」なんかはまさにそのために置かれるものなのでビミョー、とか思います。
id:skeleton-lairさん。

「お互いに尊重」とかザックリ心臓突き刺す言葉って自覚してんのかしら。/短剣でも銃弾でもない安全な言葉はないので、言葉以外で相手に対峙する方がいいかも知れませんね^^。 2010/07/22CommentsAdd Star「お互いに尊重」とかザックリ心臓突き刺す言葉って自覚してんのかしら。/短剣でも銃弾でもない安全な言葉はないので、言葉以外で相手に対峙する方がいいかも知れませんね^^。

それは「相手の考えていることを尊重」の部分のことでしょうか?ザックリ突き刺すと自覚しているか、と言われれば自覚してません。困った。
これも「俺の愛とお前の愛で殴り合い」という意味で書いてますが。ちょっと解りません。
言葉以外で相手に対峙する、というのはなんかちょっといいなと思いました。創作する者は作品で人と向かい合うわけで。まあ言葉も含まれますが。考えたいです。
id:tari-Gさん。

結局、距離を置く知恵を持てるかが唯一の解。因みに経験上真に優れたランナーは例外なく大人。

いつもどうも。うまく距離を取れる人は良いですけれど、議論中にそれをやるのって結構、高等テクニックじゃありませんか?中間に入って分けようにもどっちからも睨まれそう。一端開いた距離を詰めるのもかなり高等テクが必要な気もしますが。「ちょっとタンマ」が聞いてもらえる関係性ってのは良いかな、と思います。
id:tukaimaさん。

そういう相手に対しては、追風に帆かけてシュラシュシュシュと逃げたくなる。

状況を細かく追いかけていないので解りませんが、お疲れ様です。相対する人の間に入っちゃったのかな?と推測しますが。
id:simplemindさん。

理解も共感もできないような他人とどうにか対峙するのが(議論以前の)「対話」であって、それには精神的な強度が要る。痛いとか嫌だとかこっちが正しいそっちが間違ってるとか言うだけじゃ「対話」ではないのよね

うーん、私が考えてみたいのもその「対話」なのかもしれません。そこである程度理解しあってからの議論、てことでしょうか?でしたらスムーズな気もします。
id:white_roseさん。

論理じゃ人は救えない、感情は強すぎて手に負えない/「テキスト人格」って感情を切り離すのではなくて見えない知らないからこそ思い遣りましょうって意味で使ってるのでは

確かに感情は扱いにくいですけど、人は感情的にもなるものだ、とも思います。だから「対話」が必要なんでしょうか?「テキスト人格」についてはちょっと解りません。どこかで出してましたでしょうか?
id:angmarさん。

「骨折した子も無理にマラソンさせようとした教師も隣町の住人なんだけど、職業柄新聞記者なもんで、記事にしてみたわけだよ。いや勿論どちらが悪いという論調で書いたつもりはないんだけどな」

ええと、せっかくオブラートに包んでベールをかけたのに、引っぺがして楽しい?楽しいわな、自分がやってもきっと楽しいと思うもの。orz
ええと、創作としては「課長オヤジが覗き見た新人社員の諍いを飲み会のネタにして善人ぶってる」のほうが良いと思う。皮肉がきくし、リアリティがあるでしょ。
内容はまったくもってその通りなのでしっかり受け止めたいと思います。ウス!