非実在青少年のおはなし。

今日はちょっとマジメに。まあこれは私のスタンスのお話ですんで、何かをどうこうしよう、てなお話ではありません。そこいらへんよろしくどうぞ。

創作者の自由

「創作者の創作する自由は守られなきゃナラン」といういつも私が書いている主張に従って、あらゆる表現規制には反対しますそれがいかに大切な何かを守る為に有効であろうとも。
何度も何度も書きますが、創作者の創作する自由は何があっても守られなくてはいけません。そこに他の意思を差し挟むことは創作を阻害します。発想から技術レベルの貴賎を問わず、あらゆる創作は個人の尊厳と倫理観によって成されなくてはいけません。そして、創作者には社会的責任を取る能力も必要もありません。創作者は学者や法律家ではない。創作者は「創る人」以外のなにものでもありません。
ついでに書けば「内心の自由」とは発表しない状態だったら言えると思いますが、作品として発表してしまえば、それはもはや「内心」ではありません。それは形をもって存在します。表に見せない事でしか「内心の自由」は保てません。

今回の条例改正問題について

上記に関して、私は作品が世に出された後はどうなろうと、どうされようと構わない、と考えています。有害図書に指定されようが、極端な話、出版された片端から火にくべられても構わない。ただ、作品として世に出す事を阻害してはいけない。
そういう観点から今回の都条例の改正案には特に危機感も感じません。要は「販売方法を法で規制します」ていう案だから。流通するルートも確保できるなら問題は無い。というか今までも行われてきた事だ、これは。コレを「やがては表現規制、官憲の検閲につながるのだ」「将来的にはポルノ全面規制を前提にしているのだ」て意見もありますが、いわゆるドミノ理論風が吹けば桶屋が儲かるみたいな理論)だと思います。脅しをかけるのも大概にして頂きたい。検閲が入ることには違いないでしょうが、そもそもは業界の自主規制を都が変わりにやってやろう、という改正案なんだから。官憲以外の「検閲」は今までも入っていたのだから。(編集部の検閲を通過しない漫画作品があったか?)本来、年齢規制、市場規制は作者本人の倫理観に任されなきゃいかんことではあります。したがって今回、改正案が出されたということは「お前らの倫理観は信用ナラン」と言われているのではないですか?どちらにせよ、作品に関する倫理の問題に公権力が口出しする、ということは承服しかねることではありますが。
表現規制は回避するとして、その後には創作者、流通側の倫理観が問われる事になるのは想像に難くありません。それは交換条件などではない。公権力を撥ね退けるなら自分達で状況をどうするのか、は問われて当然でしょう。では何が問題とされているのか。どういった状況を改善すればよいのか。そもそも改善すべき状況など無いのか。

余計なお世話

「青少年の性に対する興味をどうするのか」私はまったく余計なお世話だ、と思います。私はどこかの誰かにセックスの手解きを受けた覚えは無い。今の青少年にもそんな機会を与えるつもりも無い。禁じるつもりもありませんが。勝手に見ろ、都合が悪ければ怒る、程度の事で大人としてもそれが一番正しい態度だろうと思っています。物分りのいいオヤジなんか糞食らえです。漫画の影響力について過小評価する傾向もあるようですが、私はそれが嫌いです。少なくとも私は「紙に引かれたただの線」に心揺さぶられるわけではない。その程度には影響力はあります。「健全な育成」などという手垢のついた標語に踊らされるつもりはないが、一方で間違った性知識が引き起こす悲劇からも目をそらすわけにはいかない。そして私の好きな漫画がそれを助長するならば、それを解消しなくてはならない。もっともそれも創作者自信の倫理観にかかっていることは以前にも書きました。法律の問題ではない。心の、タマシイの有り様の問題でしょう。

傷ついている誰かはそばにいる

「法で規制してでも見せたくない。見たくない」人達は私達のすぐそばにいます。声も上げず、静かに、息を潜めて。差別とはそういうことだ、と以前にも書きました。差別は目に見えた時点で幾分かは解消される方向に向いている。そして創作者が「表現の自由」を声高に叫ぶ事はその人達に対する抑圧になります。私達は抑圧者です。さてどうしましょう。以前にも書きました。一番簡単なのは抑圧しつくして殲滅すること。再び声を上げないように。抑圧者として正しい態度です。以前からそれを表明してらっしゃるのがid:furukatuさん。それはそれで私は認めます。私はそうは考えませんが。「大変ですネェ、お気の毒。」との声も聞こえます。それが自由ってやつだと、だから表現の自由に賛成せよ、と。供に戦わなくて何故協力できるのでしょうね。これもまた交換条件などではない。倫理観の問題です。

アウシュヴィッツの抑圧者再び

結局、私には「抑圧者として自分はどう行動するのか」という問いが常にある。それはナチズムの問題などではない。社会の構造の問題です。私は男性として生まれ、社会の一員として行動している時点で抑圧者です。多くの血の上に今の私はある。既得権益がある、言い換えても良いかもしれない。id:furukatuさんもそう書いていた。それにまったく同意します。では抑圧者としてマイノリティを殲滅するのか。それも良いでしょうね。逆に殲滅されるのもいい。腸をぶちまけて無様に死ぬのも悪くない。連鎖する暴力の渦からは逃れられないでしょうがね。
私は絶望するにはまだ早い、と思っている。人権を考えるならまずは自分の人権を取り返すこと。被抑圧者達の手の中にそれはある、未だに。つまりはこの社会構造を変える事。あらゆる差別を解消すること。
そしてコレも以前にも書きましたが、それで消え行く表現があるとしても、それすらも求め続けること。そして被抑圧者に寄り添うこと。結局はこういうことです。不可能なことかもしれない。だけれども、諦めては、いけない。安易な道もまた、無い。そして絶望してもなお、進まなくてはいけない。時間を止めて見る夢など碌な物ではない。