芸術の自由

メリクリも済ませたことですし、ちょっと重めのエントリーでも。いやしかし、今年の年末はヒマだ。

再び芸術とは。

以前に上手くなるって - PaPaのスローマンガライフで書いた事に、特に付け加える事は無いんですが、まとめとして。
芸術というのは「芸術である」事に価値があるのであって、社会的評価や価値は関係が無い。
「社会的に価値が無いけど、芸術として価値がある」ことは不思議でもなんでもなく、あること。そのかわり、芸術は芸術として認められなくては「芸術としての価値」がない。例え社会的に価値があると認められていても。
抽象的ですね。ワカランね。えへ。
芸術が芸術として認められる為には「歴史的蓄積」の上に立っている必要がある。芸術とは「伝統である」と言っても良いかも知れない。芸術が芸術たる為にはその蓄積を知っていることが重要になってくる。長く続く芸術の歴史の中で、自分が何をなしうるのかを考えることが重要なのだ。もちろん、その蓄積を分解、再構築する事を「芸術的価値」とする作品もある。無意味かもしれないが。例えばアンディ・ウォーホールのように。創作は作者の手によって行われなくても良い、と従来の「価値」を破壊してみせる事を「芸術」としても良い。彼がその「ファクトリー」で行った一連の創作はそういうこと。作品が美しい事は当然として、「歴史的蓄積」の上でナニを表現するのか、が問われる。
そして芸術は「社会的価値」から自由であるがゆえに、社会に属さない。常に社会の周縁に追いやられる。「芸術で飯を喰う」事の難しさと言ったら!言い換えれば「芸術家として飯を喰う」事の難しさ、とも言えるか。
岡本太郎を指して「ヘンなじいさん」と呼んでも構いはしないのだが、社会は「あの人は芸術家だからねェ」と呼ぶのだ。「芸術家は変人」コレが周縁化でなくて何なのだろうか。そして時折、社会に取り入れて見せたりなんかするのだ。途方も無い値段を付けたりして。

商業美術とは

それに対して「商業美術」というモノもある。私も普段はコレでオマンマを頂いていたりする。商業美術はその名の通り、商業としての美術である。売れてナンボの世界なのだ。そこに「芸術的価値」は関係が無い。商業美術家は「芸術家」ではない。私は芸術を生み出さない。商品を作る。だから商業美術家、商業芸術家とよんでも構わないだろう。商業美術は芸術より遥かに自由に創作できる。「歴史的蓄積」など関係ないからだ。しかも、「芸術」からツマミ食いもし放題である。良く芸術畑の友人に言われる一言がある。
「商業美術家の通った後には、雑草一本残らん」
まさにその通り!少し話題性があり、新奇に見えるものに敏感に飛びつき、旬が過ぎれば放り出す。商業美術家の嗅覚とはそういうものだ。
アンテナは敏感に!時代の流れを読んで!新しいセンスを見つけ出す。創作を自らの手で行わなくてもアタリマエ。できない事はできる所にアウトソーシングすれば商品はできる。工業では当たり前のこと。「印刷を我が手に取り戻せ!」なるほど、しかし既存のシステムを上手く利用したほうが、効率よく自分の意のままのモノづくりができますよ?もちろん、社会的な価値を認められる「商業美術」には「社会的制約」「社会的責任」が付き纏う。偽装表示は禁止だし、PL法に基づく表示も義務付けられる。タバコには「有害表示」が必要だし、酒場には酒酔い運転注意のポスターが貼られる。それは美醜には関係が無い。社会的責任として、それらはある。それは「社会に受け入れられている」ことと同義なのだ。商業美術家は変人扱いはされない。それらは「プロフェッショナル」な人なのだ。もちろん、会社として創作活動を行う事も認められ、収入も得られる。社会に属しているのだ。

表現することの自由さと堅苦しさ

もちろん、これらのジャンルはシームレスに繋がっている。グレーゾーンがある、といっても良い。芸術家が「喰うために」商業美術を手がける場合もある。商業美術家が芸術を目指して創作する場合もある。(ハードルは高いが)横尾忠則などは好例か。
しかし、これらをもって商業美術と芸術を「自由自在に行き来できる」と考えるなら、それはあまりに大雑把は意見と思う。それは「社会の周縁と内部を自由に行き来する」ということだから。社会はまったく自由であり、差別など有り得ないシステムであるなら、そこでは可能だろうけど。もちろん、今の社会は「差別もある自由な社会」でしかない。芸術家はあくまで「外側の人」なのだから。
そして内部にいる商業美術家達にはこの社会を維持する機能が求められる。「クライアントの要求」「市場のニーズ」という形で。それが不条理なことであっても、いや、社会的には合理的なことか。社会から切り離された「市場のニーズ」など有り得ない。我々の欲求と社会の欲求にそんなに距離はない。
つまり、創作物を「芸術である」と名乗るなら芸術としての有り方が問われ、「商業美術である」というなら、商業製品としての有り方が問われるということ。蝙蝠はいない。指向性の問題ではある。
私は創作物に関しては、このように考える。もちろん、これは視覚美術に限られる。文学とかにはあまり詳しくないので、また違う見方があるのかもしれない。それは断っておきたい。
私が主張する「創作者の自由」についても同様。それは「社会的制約を創作者に負わせるな」ということであり、作品が出来た後、社会的制限を課すのは流通者の問題であるからだ。作品が世に出た後、発禁になろうが燃やされようがかまいはしない。そんなことは繰り返し行われてきたことだ。今も昔も。

ここから

考え事をする時は、いつもズルズルと考えあぐねるのだが、今回のこともそうである。id:tikani_nemuru_Mさんとid:sk-44さんとの見解の相違はどこから来るのか、それをズルズルと考えている。
私個人としてはsk-44さんに考えが近い。「差別が解消された社会では性暴力表現は力を失う」ということ。
tikani_nemuru_Mさんは「差別が解消された自由な社会では性表現はさらに過激になるし、そうなっても良い」と考えていらっしゃる。tikani_nemuru_Mさんのおおかたの意見に私は同意する事が多いのだが、この点だけは違う。以前のエントリーでも書いたが、性差別が解消された後、性暴力表現がエロイもので有り続けられるかどうかは疑問なのだ。それらは「いけないことをしている」背徳感、「禁止を犯している」感覚からそのエロスが作り出されている、と思うのだ。だから、それらが禁止事項から取り除かれれば当然、エロいものでは無くなる。「無くなって何が問題なのだ」と言われれば、「別に問題ありません」としか言い様はないのだが。
私はtikani_nemuru_Mさんは「変えようが無いクィアな欲望」として「性暴力表現」を捉えているのではないか、と推測している。それが「社会の有り様で解消する欲望」であるならば、「クィアな性欲」というものは「治療可能な欲望」ということになってしまうから。だから、氏は「自由なんだから、思い切り謳歌すれば良い」と言っているのではないだろうか。論理としては正しい。が、今、議論されている対象はそういうものではないのではないか。今お話しているのは「性暴力ゲーム」「二次元表現規制」のお話。

オタクな世界

私は「オタク」としては、いわゆるヌルオタ以下、一般人からみるとオタク、程度の人間なのでその真意は計りかねることは最初にお断りしておきたい。あくまで推測なのだ。ご容赦願いたい。同時に以前夢の跡地 - PaPaのスローマンガライフで書いたように、いわゆる「二次表現」は私にとっては忌むべき存在であった事も差し引いてもらって構わない。
id:furukatuさんとか、他の方々が「差別する内心の自由」を持ち出しても守りたい物とは。この「クィアな欲望ではない性表現」なのではないか、と思っている。記号化される性とセックスファンタジー - PaPaのスローマンガライフにも書いたが、「現実の同性愛と百合、BLは違います。もっとファンタジーとして楽しみたいのです」という声にも現れていると思う。それらは代替行為であってクィアな欲望とはまた違う存在なのだ。代替行為が代替行為としてではなく、そのものとして存在しているというか。それらはリアルなものではなく、記号化されていることこそが重要なのだ、というか。
例えば、私自身には被虐的性指向があるが、これはいわゆるマゾヒズムではない。おそらく、抑圧的存在としての男性が解消されれば消えていく性質のものだ。それは抑圧者としての存在から逃れたいが為の代替行為というか。逃げ込む場所であろう。実際、マゾヒストほどの自己破壊衝動は私には無い。それには恐怖を覚える(その恐怖もまた、差別意識ではあるのだが)。しかし、自分の中にある緩い被虐指向を愛でる気持ちもまた、ある。それが消え去る社会を望みつつ、味気なく思う面もあるというか。一部の人がサディスティックな表現を好むとして、その人がサディストではない可能性がある、というか。「シチュ萌え」という言葉もあるし、そういったシチュエーションを好むだけであって、サディスティックな欲望とは無縁である可能性もあるのだ。いや、あるのではないか。
これが、他の方々と共有する感覚であるかどうか、私には結論できない。私は私であって他の人とは違うのかもしれない。頼りないことで申し訳ないけれど。

オレだって外野じゃないけど

私も蓋をあければ、マンガが好きで趣味でマンガ描いてたりするわけで、決して外野さんなワケじゃないんですが、こういう内心の問題はどうも難しい。自分の感覚が他人と同じわけもないし。正直「マリア様がみてる」は好きでも「ストロベリー・パニック」は受付なかったりする。どこが違うんじゃい、と言われても困るんですが(でもチガウよね)。
んで、百合好きと同性愛に理解がある、てこともちょっと違ってたり、なんか世の中フクザツですな。一刀両断にこれじゃあ、と切り分けられるものでも無いか。うむ。