上手くなるって

何のお話も書いていないと、何をコメントしたらいいのか解らないかもね、と思ったので追記。

上手い絵ってなに?

「上手く絵を描けるようになりたい」とは誰しもが思うことだと思います。では「上手い絵」ってどういう絵なの?技術のある絵なんでしょうか。究極の技術を誇る絵に「スーパーリアルイラスト」というジャンルがありました。空山基を筆頭にブームを巻き起こしたジャンルです。テクニカルイラスト(機械の透視図みたいな絵)もここに入るかもしれません。まるで写真のような、いやそれ以上の精確さで描写して幻想的世界から時間を切り取ったような絵世界を展開するそのスタイルも今はさほど騒がれたりはしません。
その反対のジャンルに「ヘタウマ」というジャンルもありました。湯村輝彦を筆頭に、ユルい線と鮮やかな色彩で見る人の心を掴んだ絵でした。今は一時ほど騒がれませんが。さて、ヘタウマは「上手くない絵」なんでしょうか。そうだとしたら、なぜ世間であれほど受け入れられたのでしょう。

才能ってやっかいなもの

papaさんは学校のデザイン理論で先生に「アートはクリエィション(創造)だが、デザインはオペレイション(操作)である」と教わりました。デザインというものはオペレイションであるがゆえに、自由でいられるのですが、それはまた後で。クリエィションであるアートはさほど自由では無い、と感じました。アートは創造的であるから個性が重視されます。それはなんでもいい。筆致であっても、発想であってもかまわない。ただし、「何者にも似ていない」ことが要求されます。しかもそれは人々を魅了するものでなくてはならない。または、アートの新しい分野を切り開く発想でなくては価値が無い。常人のなせる業ではありません。彼らは日々、そのような競争を繰り広げている。そこに切り込んでいくには、人に無い何かを持っている必要がある。技術?それは全員が持っている前提でしかありません。そこで始めて「才能」が現れます。これがない者は生き抜くことができません。「今まで知っている上手な絵」など何の意味も無い。いくら努力してもとどかない場合もある。美術の世界に生きるとはそういうことです。

絵のチカラ

「人々を魅了する」ってどういうことでしょう?papaさんはそれは「人の心に何か小波をたてる」ことじゃないか、と思っています。悲しみでも、喜びでも癒しでもいい。モチロン怒りでも恐怖でもいい。なにか心に小波のような感情の動きを与えられたら、「良い絵」「上手い絵」と認められるんじゃないでしょうか。そしてそれが「絵のチカラ」だと思うんですが。
じゃあ、どうやったら絵にチカラを持たせられるんでしょう。そこは理屈じゃない、イメージの問題じゃないのかな。だって心を動かすのは理論じゃないもの、やっぱり心なんですよ。感情なんて理屈に合わないものですから。そして、イメージの持ち方はそれぞれ違うから、そこが個性になってくる。
商業美術はオペレイション(操作)でありわりと自由だ、と先に書きました。何故でしょう?そこに制約が無いから。誰かに似た絵を描いてもいい。それが魅力的であるなら。みんなにうけているんだから、保証付きですしね。すべてを自分で描く必要も無い。操作する事が創ることだから。組み合わせを考えればいいんです。PCを使ったっていいし使わなくてもいい。背景が描けなければ、持ってくればいいんじゃないかな。写真と組み合わせたっていい。人間が描けなければ、動物を描けばいいしそれもできなければ既存のものをコラージュすればいい。MADってそうやって創りますよね?それでも、自分のイメージで人の心を魅了できればあなたの勝ち。それが絵のチカラです。
papaさんの絵にはいまいちチカラがありません。だから、キャラクター単体ではさほどチカラのある絵になりません。それを絵にするために、papaさんはテクニックを使います。背景に凝ってみたりラフな感じで温かみを持たせたり。マンガだとコマ割りに凝ってみたり表情を豊かにしてみたり。そうこうしているうちに、作品がチカラを持ってくるように思います。ひとつがダメなら終わり、じゃなくて工夫をしてみる、アイデアを盛り込んでみる。完成させるとはそんな事の繰り返しのように思います。

もう一度、上手い絵って

技術はイメージを表現できればそれで良い、とpapaさんは思っています。自分のイメージを描ききれるだけの技術があれば、技術のための技術は必要有りません。ということは、「上手い絵」とはイメージが表現しきれている絵、ということです。そこが中途半端だと絵にチカラが無くなります。一番大切なのはイメージすることです。後は、そのイメージを表現できる技術を身に付けること。そのうち、自分の技量の範囲でイメージできるようになります。デッサンもクロッキーも全てはその為の練習です。手段を目的にしてはいけない。
ヘタウマの湯村輝彦多摩美大の出身だったと思います。でも、彼の求めていたイメージはヘタウマだった。彼の技術はリアリズムではなく、イメージを伝える事に使われています。勘違いしてはいけない。ヘタウマは下手なのではなく、技術を使う場面が違うだけです。だから湯村輝彦の絵は「上手い絵」になっている。上手いとは決して骨格が精確に描けることではない。(もちろん、それも技術ではありますが、全てではないと言う意味において)

最後に

継続は力なりと言われますが、継続するにはものすごいエネルギーが必要になります。「創る事が好き」というだけでは困難かもしれない。イメージを上手く伝えられないうちは、ものすごい攻撃に合うかもしれない。無視もされるだろうし、無価値なもの扱いを受けるでしょう。papaさんはそれで筆を折りました。でも後悔しています。あの時、辞めなければもっとたくさんの作品が創れたかな、あの時でなければ描けない物もあったのにな。だから簡単にあきらめて欲しくない。スレに戻らなくても描き続けて欲しい、というのはそういうことです。辞めた人を責めるんじゃない、辞めた人を惜しむからこういう書きかたになってしまいます。でも、描く事を辞めないなら淋しくは無い。一緒に描いていきましょう。
明日はきっと今日よりいい日になっていますように。