愛は陽炎(チャゲ&飛鳥)

id:gouzouさんという方がいらっしゃいまして。ニコマスで良い動画を探すときに指標にしている方のお一人なんですが。なにやらアヤシゲなことになってるので、ちょと私の考察を。もちろん、返答ではありません。トラバ送っちゃうけど。

「真実の愛」と「魔法の呪文」

以前、見かけた論争である方が、ひとつのストーリーを引用なさいまして。私はこの方に「最低のバカ」みたいに書かれたので敬遠してるんですが。
そのストーリーは「親子の間の愛」みたいなお話で、相手の方に「これは真実の愛ではないのか」みたいに迫ってらっしゃいました。相手の方は「お話にマジメに解答する気は無い。強いて言っても近親間に真実の愛は有り得ない」みたいなご返答でした。さて、どうなんでしょうね。
実は私は「それは真実の愛なんだろうな」と思って見てました。簡単なんです。だって作り話だもの。どんな関係であろうが「それは真実の愛であった」と作者が描いてしまえばそれは「真実の愛」です。そこに疑問の余地は無い。ここでは「真実の愛」というのは魔法の呪文、マジックワードみたいなものです。フィクションとはそういうものです。ではそれを「真実の愛」にしたのは誰なんだろう。モチロン作者ですけどね?ではそこにどういう意図があるのだろう?もちろん、その「愛」を肯定したいんでしょうけど。はたして。

読み解く、ということ

例えば、「おかあさんといっしょ」という児童向け番組があります。これを「児童ポルノ」として消費する方がいらっしゃる。(そのこと自体は否定されるべきものではありません。個人の自由です。)その場合、「おかあさんといっしょ」はポルノ番組とされるのでしょうか?ポルノとして消費する方にとってはポルノです。あきらかに。「ポルノとは性器が描かれているものを指すのではない」と私は言われたことが有ります。しかし。
それを持って「おかあさんといっしょ」が規制されるとして、作者の責任とは。この場合は制作会社でしょうか。製作会社はそれをポルノとして作ったのか否か。もし、ポルノとして消費されないよう作ることは可能なのか、否か。答えはどちらも「否」であろうと、私は思います。表現物が「読み解き」によってポルノになるなら、その責は「読み解いた人」にあります。作者ではない。谷川俊太郎の言葉を借りれば作者は作品の真偽に責任はない。その巧拙、美醜に責任がある、ということ。ではそこに意図は絡まないのか?または、意図を意識的に排除しているのか?もちろん、そういう作品もあるのですが。はたして。

「愛」という「永遠の嘘」

「永遠の嘘」とかの「はてサ」にしか解らない言葉は使わない方が良い、そうです。結構ショック。私はこう見えても「解りにくい言葉は使わない。使うとしても、解説して使う」ことを心がけてきたつもりだったんですが。注意と解説が足りなかったようです。
ところで「はてサ」ってなんですか?誰でも知ってる言葉なの?それ。
なんの話でしたっけ?そうだ、「愛」でしたね。そういうわけで、フィクション上で「愛」なんて簡単です。それは存在します。もちろん、存在しないことにもできます。「愛なんて存在しない、そこにあるのは誤解と打算の塊だけだ」とかね。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、その両者のうち、どちらかを選択した意図は確実に存在し、そこに作者の意図はある。そして、そこに何を読み取るか、は見る人の自由ですが、その読み解き方の責任は読み取った人にあります。私が「まおゆう」感想記事で書いたのはそういうことです。後は技術的なことです。
では現実の愛は?そこにはフィクションのような意図はあるのか。「愛がある」と言ってしまえば「愛」は存在するのか。
わかりません。
でも、私は妻を「愛している」と思っている。いや、信じていると言ったほうが良いかも知れません。もちろん、それは「嘘」です。だってわからないのだから。しかし、私はその「嘘」のベールを剥がそうとは思わない。なぜなら、そのベールを剥がすということは、大切な何かを捨てるということだから。捨てることこそが誠意だ、と言う人はいるかもしれない。だけど、お互いがお互いを大切に思い、「失いたくない」と思うならその「嘘」を「永遠の嘘」として塗り重ねることを私は選びたい、と思います。「青い花」5巻でふみちゃんは独り言で言います。

「気のせいでも」「思い込みでも 刷り込みでも なりゆきでも」「私は千津ちゃんのことが好きだった」「それは本当なの」

永遠の嘘とはそういうことです。あなたにとってそれが「大切なもの」でなければ捨てればよい。そこで「永遠の嘘」は終わり、真実が手に入るのかもしれません。真実がそんなに大切ならば。「彼らは真実、真実と吼える。真実の犬なのです」誰の言葉だったか。
ところで、「真実に対する愛」は存在するのですか?大切なんですか?

黄金の月(スガ シカオ)

なんのお話でしたっけ?そうそう、「アイマスへの愛ってなんだ」ってお話でしたよね。そういうことです。だから「共有できない愛」ならばid:y_arimさんの言うように「オレとお前の愛で殴り合い」するしかありません。しかし、「殴りあうに値する」愛はそこにある。それが「愛」でしょう?方向が違うだけで「共有」もできている。
「愛なんてワケのわからない言葉で人を責めるな」との事でしたら、丁重にお断りします。それは「愛」を知りたい人の言葉ではない。知らないことを利用した他人を責める言葉でしかない。そして、それこそ私がホロコースト否定論批判のなかで批判し続けてきたことです。「解らない」のではない。「解りたくない」だけのことです。
知らないことなら人間は見向きもしないものです。嫌いなら嫌いなりに見ているなら、なんらかの興味はあるのでしょう。どうしてもと言うならそれを「愛」と呼べばいいのではないですか。
「ミジンコへの愛」「日本への愛」「思想への愛」「ニコニコ動画への愛」たくさんの愛を持ち寄って殴り合えばいいのではないでしょうか。殴り合いたいのなら。もちろん、そこには「殴り合いへの愛」があるわけですが。
「愛の無い殴り合い」は痛いだけなので、小市民な私としてはご遠慮申し上げたいところですね。