まぁ、解らないなりに、ぼそぼそと。

http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091202/1259693092/

お話を大きく捉えれば

id:harutabeさんのお話を大きく捉えれば、id:Midasさんの書いているように「男女間だけの問題ではない」ということになるんでしょうね、きっと。その辺は百も承知で。

アホだらけの世の中で

そりゃそうなんですよ。世の中の人間がみーんな聖人だったら(複雑な意味は含まない)喧騒もなにもなくてブキミなくらい静かでしょうなぁ。そうじゃないから色々起きて私らは悩んだり、する。
当然、私ら見方を変えれば誰しもがアホに成り得るし、アホの人権を踏みにじる側になる。
自分が何時ホロコースト起こす側に立つか、ワカランもんです。いや、いますでに立っているかも知れない。
だからなに?

暴力と地続きなボクら

なにやらきな臭いお話ですが、以前の「在特会の暴力」「構造的暴力」のお話とカワランお話だと思います。そしてそれが理解できない私は、同じところを何度も何度も行き来している。
結局は社会的な暴力のお話に行き着くんでしょうなぁ。そして私らがいつ抑圧者になるか解らないからこそ、私らは「認識」せねばならんのではなかったですかね。「これは明らかに抑圧である」と。自分がその側に立っている。自分が立っている場所を肯定することは「抑圧を肯定することである」。そこから逃げ出すか留まるかは自分次第なのだと。考えていたのでは無かったでしたっけ。ブコメでも随分と高く積み上げた記憶が。
では、どうするのか。それ以上はワカラナイ。以前に書いたことと同じです。私には考え、認識することしかできない。抑圧に抵抗する人々に託すしかできないんでしょう。それが以前の答えだったはず。私もそこに同意しました。だから?

ぐるぐる回っている

らしいです。同じところを何度も何度も。棹をさせば吹き飛ばされるかもしれない。ユダヤ人のレッテルを貼られるかもしれない。けれども。再び人々を、強制収容所に送り込まないためにどうすれば良いのか。いや、もうすでに送り込まれた人々がいるのではないか。送り込むヤツラの人権って。アウシュヴィッツの収容者は、看守の人権を尊重しておとなしく死んでいかなければならなかったのか。まっぴらごめんですね、そんな人権は。私の生存権が相手に握られているならば、相手の生存権もまた、私の手の中にある。それが平等ってヤツじゃないですかね?以前のお話もそんなお話だったような。

so what

結論なんか必要ない。孤独な私らは孤独に考え続ける。自分が抑圧者でいるのか、いないのか。どこで抑圧者になるのか、ならないのか。あなたが暴力に晒されていても、私にはどうにもできない。でもそれはあなたが暴力に晒される事を肯定することじゃない。私の無力を曝け出すだけ。それだけのことです。だからなに?
私の思考も、ひとつの穴に吸い込まれていくものかもしれない。もちろん、あなたの思考も。では止めますか、この辺で。