アウシュヴィッツの嘘
いやー、ずいぶんとお寒くなってまいりました。マンガのリハビリより身体のリハビリ中のpapaさんですまいどー。今日も文字だけ更新。なんかね、いろいろ考えてると創作意欲が減退するよね。一回吐き出さないと。こういうこと考える脳みそと創作する脳みそって別なのかしら?
アウシュヴィッツの嘘法
いきなりですまんです。これ以前にも書いたけど、ドイツに実際ある法律です。正確には1994年改正ドイツ刑法第
131条 ○第三項 と言います。内容は
ナチ支配のもとで行われた、刑法第二二〇a条(民族殺戮)第一項に示された行為を、公共の平和を乱す形で、公然とまたは集会において容認し、また事実を否定したり矮小化した者は、五年以下の自由刑または罰金刑に処せられる。
というもの。つまりは「公共の場で大衆煽動的にホロコースト否定したらブチこむよ」ていうことです。コレを理由に「ドイツには言論の自由がナイ」とかよく言われるんですが、んなこたぁナイ。公共の平和を乱さないように、公然とでなく、集会とかで行わなければokです。
まぁ、でも「なに言ってもおーけー」な状況でないのは確かですねぃ。こんな法律がどうしてできたんでしょうか。ちまちま調べてたんですが、良い資料に当たったのでご紹介を兼ねてエントリー。
過去の克服
良い資料というのは石田勇治さんという歴史学者の方の「過去の克服」という本です。戦後のドイツの復興の歩みについて書かれています。とてもおもしろい。敗戦から立ち直ろうとするドイツとドイツ国民の努力とあがく様が描かれていて印象的な本でした。papaさんは図書館で借りました。内容をチラっと。かなりスっとばしますんで、正確なことは本を読んでください。
- 作者: 石田勇治
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ユダヤ人への戦後保障
戦後、ホロコーストについて最初に公の場で語ったのは当時の野党党首、クルト・シューマッハーでした。
そろそろ改心すべき時がきた。われわれは、(ナチ体制下で引き起こされた)ユダヤ人の破滅と向き合い、これを深く反省すべきだ。
1947年1月社会民主党大会にて
そして当時の政府もイスラエルと補償交渉の場につくことになります。そこでコレを契機に国内の人種主義、反ユダヤ主義を克服して人権を尊重する社会規範を作ることを目指すとアピールします。
基本法第一条「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重しかつ保護することは、あらゆる国家権力の義務である」
を引き合いに出して次の三点を強調した。
第一、ドイツ連邦はいかなる形態の人種差別も拒否すること
第二、全国民が人間的・宗教的寛容の精神を身につけること
第三、反ユダヤ主義的な煽動を続ける者に対しては厳しい刑罰を与えること
特に最後の点は社会主義帝国党の禁止と同時に「アウシュヴィッツの嘘に対する取締法」(1960年)の制定につながった。
過去の克服 石田勇治著130P
こうしてアウシュヴィッツの嘘法は制定されました。要は対外的に自国の信頼をアピールするために、一部の表現を規制した、ということでしょう。国策といえば国策ですね。
id:tikani_nemuru_Mさんとの宿題のお答えもこれでいいかしら?法律分野は詳しくないので、歴史方面から調べてみました。さらに続けて調べたい、とは思っているんですけど。次は「ジャーナリズムと歴史認識」あたりを考えてます。
- 作者: 梶村太一郎,本多勝一,石田勇治,金子マーティン,新美隆
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認識する事の大切さ
以前から気になっていたんですが、id:hokusyuさんとかid:mojimojiさんとかに対してブコメで書いていた「認識するだけではダメかしら?」ということについて。
この「過去の克服」でも、ドイツ国民に「君らの罪だよ」と認識させる占領国の政策が出てきます。これがことごとく失敗で、逆にドイツ国民に「あー、ナチ時代は良かったなー」と思わせる結果になってしまって、後のネオナチ台頭を許す結果になったらしいですね。ヤスパースの罪責論もおもしろかったです。
それに対して60年代に入って国民から「反ナチ運動」が起き出すあたりに私は注目しました。やはり、一人一人が「認識する」ことによって動きが生まれる、というか発言なり行動を求めるよりも理解してもらう事が大切なんじゃないか、と思ってるわけです。逆に言えば、私が考えるように努めることかな、と。「認識する」と書いていたのはそういうことです。その上で「今立ち上がれ!」と言われるなら、私も「すみませんが、お願いします」と言います。もちろん、行動する方の背中を眩しく思いながら。
そうして少しづつ考えながら、前に進めたらいいなと思います。
嫌われても寄り添いながら
表現規制についても同様に考えています。性暴力表現も表現であり、創作である限りは「創造者の自由」を守りたい私としては、擁護したいと思います。以前にも書きましたが、その道を閉ざすことは「創造者としての死」を意味するから。同様に「性暴力被害者」の方の感情にも寄り添っていきたい。そこは深く考えていきたい。それがどういう結果になるかは解りませんが(私も両立できる、と今は考えています。気持ちを添わせることで)考え続けたい。本当は双方が話し合える「公共圏」を作ってそこで「線引きの度合い」が決められたら一番良いような気がするんですが。どうも荷が重いです。